【Sh.K.N.ラオが語る】 第1回 ─ 占星術との出会い (訳付)

清水がデリーで書いています。



①青年時代からはじまる占星術とのかかわり。
②マハトマたちから言われた助言と予言。
③バールティア・ヴィッディア・バワンで占星術を教えるようになったいきさつ。

などについてSh.K.N.ラオが語っています。

聞き手:ボーン・ポール・マンリー
収録日:10月19日
    
Sh.K.N.ラオジ、お忙しいなかお時間を割いて頂き、ありがとうございます。さっそくですが、あなたのことをあまりよく知らない人のために、あなたご自身について少しご説明頂けないでしょうか? そして、私たちがどうやって占星術のスキルを磨いていったらいいのかについて、アドバイスを頂けないでしょうか?

話せば長いのだけど、手短に話しましょう。11才のとき、私は死の病に冒されていました。それは第二次世界大戦中でした。(学校から)帰宅すると、私の母は占星術をやっていましたが、母から占星術、数秘術、手相術、筆跡鑑定を習いました。母は私の関心を病気からそらしたかったのです。しかし私はそういった科目をいちおうは学びましたが、深く理解しようとはしませんでした。私はスポーツに夢中で、外で過ごすことが多かったのです。

しかし、私は政府の役人になり、占星術を再開しました。1942年から占星術を始めて、そして1960年代、私はスピリチュアル・グルに出会い、占星術にのめり込みました。なぜなら、グルはいつも占星術を使っていたからでした。グルは、「占星術はインドの偉大な永遠不滅の遺産である。占星術はもっと正しく理解されるべきだ。占星術はヴェーダーンガでヴェーダの一部なのだ」といいました。それで、私は占星術を続けました。

そのうち、私のジョーティシュ・グルとなるバースカラナーンダジに出会い、私の占星術は洗練されました。彼は私に、「私が知りたがっているスピリチュアルな質問の答えの多くは、占星術で知ることができる」といいました。

彼は占星術についてすばらしい原稿を書いていました。その原稿の最初の5章は占星術と宗教や心理学などに関するものでしたが、私はそれ以上にすばらしいものは見たことがありません。しかし彼が死んだあと、弟子のひとりがその原稿を盗んでしまい、とうとう出版されることはありませんでした。それはとても残念なことでした。これほど豊富な経験と深い洞察に富んだ文章を書ける人物が、この世にバースカラナーンダジを除いて他にいるとはとても思えません。それほどすばらしい内容でした。しかしすべて紛失してしました。なんとか見つけ出そうと私もずいぶん骨を折ってみたのですが、とうとう見つかりませんでした

そして、そうこうしているうちに、私はだんだん占星術がいやになっていきました。そもそも占星術は収入の手段でもありませんでした。私は占星術を収入源にしたことは一度もありません。占星術を人助け、友人を助けるためにやっていました。

私のマントラグル、スワミ・パラマナーンダ・サラスワティからは、「なにがなんでも占星術を続けるように」といわれていました。占星術を通して、人々をヴィシュヌ・サハストラナームギーターなどに導くことができると。占星術が呼び水となって人々が集まり、そして自らの問題を解消するためにそういったマントラとかを唱えるようになる。そういう流れができると。そうやって、お前の占星術を通して人々をスピリチュアルな道に導くことができるんだと。

それはほんとうにその通りでした。

南インドではストートラムを唱えるのはめずらしいことではありませんが、デリーなどの北インドでは、むかしはストートラムなんかだれも唱えていませんでした。いまではデリーだけでも1万人近い人がヴィシュヌ・サハストラームナムを唱えるようになりました。

そして1980年、グルジがサマーディに入り(他界し)ました。そして、それを機に今度こそ占星術をやめようと思いました。そしたら、今度はムールカナーンジに出会いました。彼はデリーのノイダに住んでいました。

彼は私に、「絶対に占星術をやめてはいけないと」いいました。私は、「どうしてですか?」と聞きました。彼は、「お前にはミッションがある」といいました。「お前は、占星術を科学としてよみがえさせる。お前は、最高水準で最大規模の学校を設立する」と。

私は、冗談っぽく「スワミジ、私にはガーリーも、バーリーも、サーリーもありません」と答えました。ガーリーとは車のことですが、私は車を持っていなかったし、一度も所有したいと思ったこともありませんでした。しかし、持とうと思えばもてないことはありませんでした。でも、できるだけ身軽でいたかったので、そういったものをほしいとは思ったことはありませんでした。バーリーとは家のことです。私は家も所有したことはありませんでした。たしかにいっとき小さな家を購入したことがありましたが、それはデリーでは賃貸住宅ではやっていけなかったからでした。家賃がとても高いので、賃貸住宅での暮らしはとても不経済だったからです。サーリーとは女性の着物ですが、私は一度も結婚したことがありません。それで、「ガーリーも、バーリーも、サリーもないのに、どうやって学校を始めることができるのでしょうか?」とムールカナーンジに聞き返したのです。彼は「神がお望みならそれは実現する。すべて神が創造なさるから、見ていればいい」といいました。それは1980年に彼が見たビジョンでした。

そしたら、1982年、バールティア・ヴィッディア・バワンから私のもとに手紙が届きました。占星術コースを創設したいので私に引き受けてくれないだろうかという内容でした。しかし資金はありません。そのころ、私は職場や自宅で小人数のグループに占星術を教えていました。私はバールティア・ヴィッディア・バワンの人たちに会い、「やるんだったら、細々とやるつもりはありません。たとえ私が引退したり死んだあとでも、コースが継続できるようなものをやりたい」といいました。だから「私だけが教えるというものではなく、チームで教えていけるようなものをやりたい」とつたえました。そして、しばらく待つことにしました。

1987年、とうとう小さなチームでしたが、占星術学校を始めました。先生はそれほど優秀ではありませんでしたが、なんとかやっていきました。それぞれ少しずつ担当するなど工夫して始めました。とても完璧とはいえませんでしたが、どうにか始めることができました。生徒は30人しかいませんでした。

そして2009年、生徒数は1200、先生は27人になりました。これまでに出版した書籍は80になります。そして季刊誌も発行しているし、それは発刊してから12年になります。たいへんな成果です。ムールカナーンジの予言はことごとく実現しました。
S.Shimizu
Calender
<
>
- - - - - - -
- 1 2 3 4 56
7 8 9 10 11 1213
14 15 16 17 18 1920
21 22 23 24 25 2627
28 29 30 31 - - -

全記事

Designed by 石津 花

Archive
no. of Visitors
検索
最新コメント
リンク
只今の訪問者数
現在の閲覧者数: