故MSメータ──Shr.K.N.ラオの追悼エントリ

故メータ先生(1932.01.21~2010.04.25)のエントリが続いている。
・メータ先生、逝く‥
「アシュタカヴァルガ」の中で使えそうな一般則

Shr.K.N.ラオもメータ先生(メタジ)について追悼の記事を書いている。
Mehtaji_Orbiture

翻訳し、掲載します。
  
典型的な紳士、MS.メタジを偲ぶ (1932.01.21~2010.04.25)

風前の灯火(ともしび)─それは、私(Shr.K.N.ラオ)が2010年3月最後の週に故MSメータのホロスコープを見たときに得た印象だった。
彼は1932年に生まれた。
その時点で、すでに警鐘が鳴っていた。

人生という長旅は、いつか終わりを迎える。
それを人より早く迎える人もいれば、遅く迎える人もいる。

都市に住む平均的なインド人は、多くのストレスの中に置かれている。
都市特有の公害によってもたらされる様々な健康問題。
他にも、高血圧、糖尿病、心臓病、腎臓病など。
様々な病気が平均的インド人の健康をむしばんでいる。

ダシャーは金星/木星/金星期だった。
金星は2L、木星は7Lである。
メッセージは明らかだった。

私は別のアングルからも検討した。

Mehta_Charts


メタジ(メータ先生)とは、しばらく会っていなかった。
2010年3月の第3週から一ヶ月以上たっていた。
電話でも話をすることはなかった。
使用人が留守のとき、病床にある妻をひとり家に残してバールティヤ・ヴィッディヤ・バワンで教鞭をとることわけにはいかない。
その旨が書かれたメッセージを、彼から受け取るくらいだった。

そしてメタジの病の報である。
メタジは肺炎を患っていた。
あとで知った。
そして、メタジはICUに入れられた。

私は望みを失った。
4月11日のコンボケーションのとき、コーネル・ゴウルにいった。
メタジはいまとても難しい時期にあると。

4月25日、バーラティーヤ・ヴィディヤー・バワンで教鞭をとっているときだった。
ダドワルジとビサリアジがメタジの訃報を知らせにきた。
私たちはみんな教室を出てメタジの冥福を祈った。

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メタジとの美しい思い出は18年にわたる。
その最終章のページがついに閉じた。

メタジはとても紳士的な教師だった。
1992年から占星術を学びはじめた。
その後、バールティヤ・ヴィッディヤ・バワンで私の同僚となり占星術を教えていた。

メタジの占星術家としてのキャリアはまるで小説のようだった。

外交官として重要なポストを歴任した後、外務省を退官してすぐに占星術を学びはじめた。
60歳をすぎていた。
しかし、20歳のような記憶力の持ち主だった。
卒業試験を通ったときの成績は3番だった。
銅メダルを受賞した。

彼と同年代の生徒はだれも彼ほどの成績をおさめることができなかった。
多くにとって占星術は、試験の終了とともに忘却の彼方に去ってしまう。

しかしメタジは違った。

メタジは、若者のような勢いでリサーチに邁進した。
メタジは、私の連載記事「Planets take them across the seas」や外国セミナーの土産話に食いついた。
そしてメタジは、同じテーマの本を書きたいと私に申し出た。

メタジには、様々な目的で外国に赴いた人々のホロスコープのコレクションがある。
それらは、外交官、国外移住、留学など、多岐にわたる。

そしてメタジは、同テーマに関してはいまなお最も優れた書籍『Planets and Travel Abroad』を著した。
これでメタジはある意味、名を挙げた。
占星術界に新星が登場したことを世界に知らしめたのだ。

その後も彼の著作活動は続いた。
『Ashtakvarga: Concept & Application』
『Analyzing Horoscope Through Modern Techniques』
『Varshaphal(Annual Horoscope)』

メタジにはいつも感心させられたことがあった。

メタジは、人生の教訓を教えてくれた人々に対して、尊敬の念を忘れることがなかった。
その態度は、占星術に対しても変わらなかった。
それは、敏感で進化した魂がもって生まれたサンスカーラの徴(しるし)だった。

先生や年長者に対して礼を失した態度で望む人々がいる。
メタジの目は、そういう人々への嫌悪を、いつもではないがときどき表現することがあった。

メタジは、腐敗や嘘が蔓延するインドの現状につねに一家言もっていた。
台頭する毛沢東主義、テロリズム、失業問題。
それらは、メタジの関心の中心だった。

メタジがマンデーン占星術に強い関心を示すのは自然だった。
そしてメタジは、マンデーン占星術の最高傑作を著した。
『TIME TESTED TECHNIQUES OF MUNDANE ASTROLOGY』は、A.ラディカとの共著だった。

メタジは、国際政治を専門とし、外交官として多くの修羅場をくぐり抜け、学生時代には歴史学を熱心に学んでいた。
そんなメタジは、社会的・歴史的な出来事に対してつねに鋭く洞察することができた。

メタジは他にも多くの書籍を著した。
どの著書においても、メタジの飽くなき探求心、豊富な知識、証明されたテクニックの明確な活用は、いかんなく発揮された。

メタジが最も嫌ったのは、シュローカをただ繰り返し、スートラを引用するだけでなにも証明することもできなければなにも言いあてることのできない占星術家だった。
そういう、無能だが大半を占めるパンディット(僧侶)占星術家を、メタジは最も忌み嫌っていた。

人間も70をすぎると、このような確固たる姿勢を貫き通すことは難しくなる。
しかしメタジは、この点において、まれに見るほど例外的な知識人だった。

国家の分離独立運動についても、メタジは確固たる意見を持っていた。

「私たち(インド人)は悪意ある何者かに催眠術をかけられ、国家分離主義の道を突き進んでいる。」
「いまや多文化主義は死に体で、人種偏見とテロリズムばかりが勢いづいている。」

メタジは(インドの)疑似世俗主義を憎んでいた。
分離主義的な対立文化をそもそもインドは有している。
それは、インドにとって致命傷となりかねない。
そう思っていたからだった。

メタジはBJP党に明らかなシンパシーを抱いていた。
BJPが総選挙で大敗を期したとき、メタジは残念がっていた。

メタジのそういう反応は当然だった。
メタジは、インドの分離独立運動のさなか、パキスタンのラワルピンディーから逃れてこなければならなかったからだ。

「ヒンドゥー教徒」の人生は「敗者」が歩む人生と同じだ。
メタジはしばしばそういった。

道徳観念が麻痺した政治家が、いわゆる「マイノリティー(弱者)」である共産主義者の票がほしくて日和見主義的な政策ばかりを打ち出している。
そのため、インドは深く病んでいる。
共産主義者は、いまや十分脅威になるほど成長してしまった。
メタジは、そう私に語っていた。

メタジは、外交官として西アジアで数年間過ごしたことがある。
その間、メタジは西アジアをより深く理解するようになった。

サダム・フセインはたしかにシーア派とクルド人を弾圧した。
しかし、インドに対しては手厚い援助の手をさしのべていた。

15年前、メタジは次のようなことをいっていた。

石油産出国、宗教原理主義の西アジア諸国と西洋はいずれ衝突する可能性がある。
メタジは、有名なハンチントンの著書『文明の衝突』が現実のものとなることを予期していた。

数年前、政治分析の結果、メタジはある結論にたどり着いた。

それは、イスラエルとアメリカはイランを攻撃するだろうというシナリオだった。
それはまだ起きていない。
しかし、宇宙における武装競争においていまや圧倒的な勝者となったアメリカが、イランを局地的かつ選択的に攻撃するだろうというセオリーは、すでに複数の研究者が唱えている。
宇宙からの攻撃はいまやリアルである。

夕方、私の部屋でメタジが語った国際問題に対する鋭い洞察の数々が、いまは懐かしい。

ここ5~6年間、メタジはだんだんとスピリチュアルになっていった。

ヴィシュヌサハストラナーム、ナラヤーナカヴァチャム、ギータ、ガヤトリマントラ、そして巡礼に傾いていった。
ほんとうの意味でのヴァイラーギャ、すなわち離欲(ディタッチメント)を深めていった。
そして心の中の平安を確立していた。

メタジは、貧しい学生を金銭的に支援していた。

そしてそのことを誰にも話さなかった。
誇示するためにではなく、ほんとうの陰徳を積んでいた。

メタジは、他人の悪口を決していわなかった。
それは希有な資質である。
メタジは、あっけらかんと、大声で、無邪気に笑う癖があった。

メタジのそういったすべてを、いま私は懐かしく思う。

真の親友であり、スピリチュアルで、知的で、バランス感覚に優れ、誠実な紳士であったメタジを私は忘れることはないだろう。

(2010年4月26日)
S.Shimizu
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