南インド古寺巡礼の旅 (その3)

清水俊介が南インドで書いています。

どの寺を訪れてなにをするかは、占星術師が決めます。もしくは、この近辺に多く存在するナディの館を訪れて自分のことが書いてあるナディ文献を検索し、紐解くと、そこに書いてあります。

ナディの館は、日本ではアガスティアの館として知られていますね。

数年前に開いたわたしのナディ文献には、火星、水星、月の寺の具体的な名前と、そこでなにを執り行うべきかが書いてありました。地元の占星術師からは、ラーフの寺とケートゥの寺で祭火への献供(ホーマ)を執り行うようにと言われていました。

そんなこともあって、この一週間、わたしはタミルナドゥーの原野に散らばる寺院群のなかから、火星の寺、ラーフの寺、木星の寺、月の寺、水元素の寺を訪 れ、拝火祭(アルチャナ)、潅浄(アビシェーカ)、祭火への献供(ホーマ)を執り行いました。現在、土星のダシャーにあるので、土星の寺にも訪れてアビ シェーカを行いました。

アビシェーカ
木星神にアビシェーカを執り行っているところ

救済法(処方)は、ダシャーやトランジットにおける惑星のドーシャ(毒)を取り除くことに主眼があります。しかし、なんのためにドーシャ(毒)を取り除く のでしょうか? これは、最も重要な問題です。私利私欲のためだけに救済法を行うなら、新たなカルマとなり、いずれ手痛いしっぺ返しとなってかえってくる といわれています。救済法は、あくまでも自己の精神性の向上と、世の中の幸福のために行うことを忘れてはいけません。つまり、マントラ(精神鍛錬)とチャ リティー(世の中の幸福)をかたちを変えて行うのだと考えるなら、聖仙パラシャラの救済法(処方)となんら変わらないのです。そう、救済法に決まったかた ちはないのです。

ところで、わたしは普段はヴィシュヌ系のマントラを唱えています。ということは、ヴィシュヌ派ということになります。なのに、シヴァ系の寺を訪れて儀式を 執り行っていいのでしょうか? これは、たとえるなら、日蓮宗の信徒が、曹洞宗の寺参りをするようなものではないでしょうか?

結論からいえば、わたしは宗教・宗派にこだわらないようにしています。ジョーティシュについても、KNラオ、ラーマン、チャラク、サンジャヤ・ラースなど 細かなところで教えられている内容に若干の違いがあるようですが、あまり小さな違いにはこだわらず自分に有益なものならなんでも取り入れるようにしていま す。

今回の旅行でも、サイババで有名なアムリタ・ハウスを訪れ、サイババの写真から湧き出るアムリターを自分の目と肌と舌で実際に確認してきました。帰国して 間もない来月6月初めにはアマチが来日するので、おそらく府中にあるアジノモト・スタジアムに赴いて彼女に会いに行くでしょう。

サイババ
写真から湧き出るビブーティ(アムリタ・ハウスにて)

宗教・宗派への極端なこだわりは、結局、原理主義に行き着きます。ユダヤ教徒の旧約聖書への極端なこだわりと、イスラム教徒のコーランへの極端なこだわり が、いまのパレスチナ問題を生んでいます。シュリKNラオは、アメリカは世界最悪のテロ国家だといいます。アメリカは、民主主義を絶対普遍の善であるとし て世界に押しつけようとしています。日本においては、グルを絶対視してサリンを撒いたカルト教団がありました。

世の中は無常です。だから、この世に生きるのはかくも苦しく、それゆえに、わたしたちは、常であるもの、永遠不変のもの、絶対のものを求めようとします。 だから、わたしたちは、絶対的な存在としての神を求め、そこから宗教・信仰が始まりました。しかし、神の絶対性を認める行為には、宗教・信仰が容易に陥る 落とし穴があります。たとえば、自分の神は絶対なるがゆえに正しく、したがって他の神は正しくない、という思考です。これは、正しい神を信奉する「自分」 は正しく、正しくない神を信奉する「他人」は間違っている、という独善的な思考へと容易に発展します。そして、自分とは異なる他人は否定してもかまわな い、排除しても構わないという思考を生み、いずれ必ず破壊・テロ行為に行き着きます。

自分と他人の違いばかりに目を向けるのではなく、むしろ共通点にこそ目を向けるようにするなら、世の中はもっと過ごしやすくなるに違いありません。

そんなことを考えながら過ごしたインドの2週間でした。
S.Shimizu
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